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ぼらブログ

一体どんなベーシックインカムがいいのか?

投稿日時:2010/06/26(土) 18:07

★★★一体どういうベーシックインカムがいいのだろうか?
完全なるベーシックインカムか? それともダグラスの社会信用論か?



政府紙幣(公共通貨)の発行からすべては始まる


●BI
の発案者(ダグラス)のAB理論、すなわち賃金総計では決して商品総計を
買えないという式をもう一度見てみましょう。

資本投資+原材料・運搬費など+賃金=商品価格
(利益は、資本投資に含まれるものとして、省略しています。)
(原材料・運搬費・備消耗品などの諸経費は、省略して原材料に含めています。)
人々は恒常的な購買力不足で、売れずに困り、買えずに困り、奪い合う
という生存競争的な賃労働社会を表わしています。
その根本的欠陥を、分かち合う社会に構造転換する為には、
この式の外に出て、全く新しい貨幣の発行運営と、
全人格的判断に基づく自由な協同労働と、
全人格的判断に基づく分かち合う分配の為の分配(ベーシックインカム)を、
構築創造する意志を持たなければなりません。
その為にはまず、全く新しい経済原理に基づく公共貨幣(政府紙幣の発行)
が必要です。
この第一歩をまず、何はともあれ踏み出す事が、何よりも重要です。
そうしなければ、何も始まりません。

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補足説明ーなぜ、インフレ・デフレになるのか?

社会全体の貨幣がバケツの中に入っているとしましょう。
社会保障の人々へのその分配の財源を、賃労働システムによる貨幣循環の中に
求めるならば、バケツの中の水の、バケツの中での移動にすぎません。
これまでの社会保障と同じです。
しかし、新しい金貸しではない信用創造で、それを支払えば、ホースで新しい水を
別の水道の水源からバケツの中に注ぎ込むとなると、これまでの社会保障とは
全く違う効果と性質があります。
もし、他の要因が何も変化しなければ、ホースで新しい水を注げば、水量(貨幣量)
が増え、たとえば、貨幣量が10から100に10倍になれば、インフレになって商品
価格が上がり、貨幣価値が下がる。けれども経済のパイが増えれば、必ずしも
そうなるとは限らない。たとえば企業は、100%の能力を発揮している訳でなく、
生産稼働率が60%なら、まだ40%価格を上げないで生産出来る。企業がこれ以上
頑張れなくなって、値上げに踏み切るまで、インフレにはならない訳です。
「根を上げる」から、「値が上がる」訳です。
別にまだ根を上げている訳ではないのに、値を上げる便乗値上げや、強欲で不健全な
虚構のマネーゲームで、インフレになる事もあります。
この様に、なんらかの要因で経済のパイがそれに合わせて、増えて行けばインフレに
なりません。
もっと言えば、究極的には、
人間が「値を上げる」から、「値が上がる」訳で、値を上げない強い意志があれば、
あるいは人間が貨幣を人間に害を及ぼさない様に事前にコントロールするならば、
そうならない訳です。
しかし、社会信用論の場合、決して貨幣量全体を増やそうという訳ではありません。
ベーシックインカムは、賃労働の賃金や、これまでの金融資本による貨幣発行に
とってかわって新しい貨幣の発行を増やして行くもので、それに応じて、徐々に
古い貨幣の量を減らして行くのです。ベーシックインカムは、資本の分かち合いあるいは
賃労働の賃金にとってかわるものです。
さらに、ベーシックインカムは、人間の労働を貨幣の支配力から自由にするので、
無料労働(純粋労働)が自由に出来る様になり、損得勘定に基づく貨幣循環
そのものが縮小して行くでしょう。
つまり、賃労働にBIがとってかわり、BIが増加するだけでなく、
さらに、全く貨幣に依存しなくても、分かち合いや贈与は出来るからです。
ですから、完全なるBIが実現したあかつきには、その先は、さらにBIなどの貨幣に
依存する必要もなくなり、BIは減少するでしょう。
遠い将来、人類は貨幣など必要ないとすら、考える様になるかもしれません。


参考資料リンク


バケツの中の貨幣循環の水源は、これまでバケツの中の日本銀行でした。
バケツの中では、これまで貨幣損得勘定の原理で、金貸し(金融家)によって
新しい貨幣発行がされ、政府や企業や個人は借金から人生をはじめなければ
なりませんでした。そして返済しなければならないので、貨幣損得勘定にすべて
の人間の営為が支配される様になってしまいました。
本来商品であってはならない様なものまで商品になっています。
大部分の人間の労働が商品になる事によって、人間は貨幣に支配されています。
そんな中で人々は欠乏から人生をスタートさせられ、借金づけになり、おぼれない
様に隣人同士、奪い合わざるを得なくなってしまいました。
このバケツの中の水の流れに留まる限り、その中の水を再配分する事は
出来ますが、この様な事態の改善にはなりません。ですが別の水道のホースの
水を注ぐならば、新たな人間的な分配と貨幣供給の方法を実行した事になります。
その様な全人格的な判断による新たなBI的分配法が、従来の賃労働という分配法
にとってかわって行く可能性のパンドラの扉を開いた事になります。
これまでの社会保障では、賃労働システムはそのままで、人々の賃金から
税金で吸い上げ、また人々に再配分します。それでも私達はいくらか幸せになる
可能性はありますが、改善されるのはそれだけで、税金を吸い上げられる以前の
賃労働という貨幣の奴隷状態、国家や民間事業や個人が借金や欠乏から人生を
始める貨幣の奴隷状態について改善するきっかけにはなりません。
これまでの社会保障と同じく税金に財源を求めるならば、たとえそれを何と呼ぼうが
それと同じです。
この違いは大変大きな違いです。
これまでの社会保障のやり方は、現在の賃労働システムというお粗末きわまりない
労働と分配のシステムの存続をお手伝いし、尻拭いしてごまかしている様な
2重人格的な方法です。まるで右手でなぐっておいて左手で後で助ける様なものです。
主たる分配制度が社会保障で、賃労働は補助的な存在にならなければなりません。
私はそう思います。


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この第一歩のパンドラの箱を開けば、これまでの借金による金融損得勘定経済が
必然的に引き起こす財政赤字や、借金や貨幣損得勘定に追いまくられ苦しむ
ラットレースの様な借金づけの貨幣の支配拘束から、人間の労働と人生が
自由になる為の第一歩を踏み出した事になります。
貨幣がなければ何も出来ない社会はもうおしまいにしましょう。
政府は、もうこれ以上財政赤字を増やす必要なく、公共事業が出来る様に
なります。
財政赤字の返済を、一遍にではなく段階的に、その新しい政府紙幣でして
行く事も出来るでしょう。
消費税増税して、財政赤字を国民に負担させるなんて、全くナンセンス
です。

それから先は、2つの道があります。
その新しい第二の貨幣を、第一の貨幣に連動させない場合と、
連動させる場合、の二つです。


新世界=第二の貨幣を、第一の貨幣(従来の貨幣)に連動させない場合
完全なるベーシックインカム

この場合大事なのは、労働と分配の間を循環する従来の貨幣と連動しないで
切り離して考えると言う事です。
循環しない分配の為の分配です。
この世界では、労働はすべて本来の無償労働(純粋労働)です。
一回しか使えない万能の商品券の様なもので、それを売る事は出来ません。
ですからもしこの公共貨幣を、ベーシックインカムに使うなら、商品には
2つの価格が付くと言う事です。
その場合、この第二の貨幣は、第一の貨幣(従来の貨幣)と交換出来ません。
また、この方法だと、第二の貨幣は、従来の貨幣と連動していないので
良き分配だけを考えて理性的に適正価格を決定する新しい制度設計が
必要です。
第二の貨幣は景気によって変動しないで、BI支給額との関連で、適正
価格を制度設計して決定する。商店はBI担当をおく義務があります。
BI
担当は、BI法の適正価格決定基準に従って適正BI価格を決定します。
この場合、ベーシックインカムを実行すると、インフレになるといって妨害する
人達に批判の余地を与える心配は全くありません。
労働は、すべて本来の純粋労働=無償労働で行なわれます。
輸出入は、政府紙幣で、輸出入機関が経済全体で相殺すれば実質無料
になります。
赤字になればその分、国家が政府紙幣を発行して支払います。
インフレの心配はいっさいなく安心して実行出来ます。
また、この場合、貨幣は循環しないので、1回支払うとそれで終わり、支払いを
受けた者が、それをまた使う事は出来ません。
いわば商品やサービスの万能の引換券の様なもので、電子マネーやカードの様な
形態も可能です。
商品の価格は、変動しないBI用と変動する賃労働用と2つある事に
なります。
新世界は、純粋労働(無料労働)の世界です。


旧世界=第二の貨幣(公共通貨)を、第一の貨幣(従来の貨幣)に
連動させる場合

ダグラスの社会信用論=改善された賃労働社会


よくある勘違いは、BIをすると貨幣総量が増えるから、インフレになると
いう人がいるのですが、BIは賃労働の賃金にとってかわるものですから、
決して貨幣総量を増やそうという訳ではありません。
またばらまいて財政赤字になって、結局あとで税金が増えるという心配も
ありません。BIの財源を、消費税あるいは所得税などの税に頼るのでは、
貨幣を右から左に移動するだけなので、そうなるかも知れませんが。
社会信用論のBIでは、貨幣の発行と運用をこれまでのやりかたと違い
国民の代理人として行なう様に、金融のあり方を改善します。
すなわち過去からの膨大な遺産である生産力に基づく莫大な富の力
(社会信用の力)は、金融界の一部の人達のものではなく、全国民の
ものだからです。そういう考えに基づき、新たに公共通貨(政府紙幣)
を発行して、ナショナルバンクが、貨幣の発行と運営をしようというの
です。

ダグラスの社会信用論は、まさにAB理論があらわすインフレ・デフレを
引き起こす金融経済と全く違う新しい貨幣の発行運営と管理をし、
インフレやデフレを二度と引き起こさない様なやり方でやろうと予防的、
理性的に努力します。
インフレ・デフレは、そのほとんどは、不安あるいは強欲で、貨幣を出したり
引っ込めたりする事で起こる人災です。
ですから、まず部分準備金制度は廃止されます。
有害なマネーゲームを禁止する金融規制も必要でしょう。
インフレ・デフレの最大の原因である金融経済全体のがん細胞=虚構のマネー
経済部分が一挙に取り除かれます。
この様な不健全な金融経済は、どんな事があってもなるべく早く崩壊させなければ
なりません。
これ以上放置したら、今後ますます、マネーゲーム金融経済が膨張し続け、
私達は完全に奴隷となってしまうでしょう。もうなってますが、ますます。
しかし、実体経済は新しい下記の様な運営方法で貨幣管理運営なされます。
ダグラスの提案は、
公共通貨(パブリックカレンシー)
国民配当(ベーシックインカム)
正当価格(ジャスト・プライス)
の3つの提案です。


公共通貨(パブリックカレンシー)
 

公共通貨とは、生産融資の仕方を、これまでの銀行のやり方ではなく、国の新しい
公共事業は貨幣発行によってナショナルバンクが行い、しかも全体的な減価償却
相当分だけ、使用量として、ナショナルバンクに回収するのです。
銀行融資の場合、生産者の場合利子は付きますが、小売商店の場合利子は
付きません。手数料はあります。
新しい生産融資は、すべて新しい信用によって、ナショナル銀行から供給され、
民間銀行を経て、企業や個人になされ、それらはすべて、最終商品となって、
消費される瞬間に、また回収されてナショナル銀行に戻ります。
生産融資は、これまでの様に生産者の内部留保(貯蓄)からの投資としてなされ
るのではなく、新しい信用によって、ナショナル銀行から民間銀行経由でなされ、
それらはすべて最終商品が販売された時に、商店から民間銀行経由で
ナショナル銀行に回収されます。
民間の銀行は、注意深くこの金融サイクルの循環の原則に忠実に逸脱しない
様に、
現実を反映する形で理性的に金融の運用をします。
もはや国家は借金から人生を始めるのではありません。
ですから人々の税金を公共事業などの財源とする必要もない。
貨幣は人々の生産に仕える単なる切符、引換券の様なものです。
民間銀行は、国民と政府の間の仲介役として、全国民の代理人として、
全国民の公益の為に、そのナショナルバンクのパイプ役として働きます。
そして、そのサービスの手数料を得て、営業を続行出来ます。
国民の代理人として国民に仕える為に働くのです。

国民配当あるいは社会配当(ベーシックインカム)

現金の個人への分配は、発展的に雇用依存性を弱める。
国民配当(BI)は、発展的に賃金や給料に置き換わる様にする。
ダグラスの社会信用論の場合は、
A
B理論の式
資本投資+原材料・運搬費など+賃金=商品価格
の賃金からなる購買力と、商品価格との間に生じる恒常的なギャップ
商品価格>購買力(賃金)
を、常に、
新しい商品価格(古い商品価格×補償比率)=賃金+BI(国民配当)
となる様に、
国家が補償(代償)価格と、BI(国民配当)を支払います。
すなわち、社会の生産総量を買えるだけの購買力を国民皆が持てる
様に、国家が補償比率と、BI(国民配当)を計算し決定します。

BI
(国民配当)は、最低限とは言っても、最初から、
すべての人が質素とは言え苦しまないで心身共に健全に暮らしていける
に十分な額でなければ、小額ではBI(国民配当)とは呼べないでしょう。
BI
(国民配当)の額は、上の式を満たす額でなければなりません。
勘違いされては困るのですが、BI(国民配当)が増えたら、支払わなければ
いけない賃金は減って行くのであって、決して、BI(国民配当)が増えた分
貨幣の量が増えて、インフレになるのではないと言う事です。

正当価格(ジャスト・プライス)

新しい商品価格(古い商品価格×補償比率)=賃金+BI(国民配当)
にどの瞬間においてもなる様に、補償比率を決め、最終商品が売られた
ら、補償比率によって値下げした分(補償価格)を、国家が補償する。

すなわち、社会の生産総量を買えるだけの購買力を国民皆が持てるよう
国家が補償比率を決定します。
最終商品を売る商店は、補償比率分を値下げして、商品を売り、値下げ
した分を、民間銀行に請求します。
民間銀行は、その支払った額と同額を、ナショナルバンクから受け取り
ます。民間銀行は、ナショナルバンクと国民との間のパイプ役です。
ナショナルバンクは、最終商品の商店の為に、民間銀行に、値下げして
もらった分補償(代償)価格を、民間銀行に支払います。
民間銀行は、手数料を、含めて国家からそれをもらうでしょう。
それでは商店が不当に販売価格を吊り上げたらどうなるのでしようか?
それは、不当行為として禁じられています。不当な隠し金ですから。
それでは商店がどの程度利益を得てもいいのでしょうか?
どこまでが正当な利益で、どこからが不当な価格の吊り上げになるので
しょうか?
それは商品の種類によって、適正な利益が合意に基づきパーセントで決め
られます。国民はそれを要求する権利があります。
商店は、沢山売る事によって、自分の利益を増やす事は出来ますが、
価格の上昇によって、もうけが増える事はなくなります。
ダグラスのこのシステムでは、恒常的な購買力不足が起こらず、生産物
が購買力不足で、売れないと言う事はありません。もし売れなければ
必要とされてないものを作ったのでしょう。
また消費者も商品は生産されているのに、お金がなくて買えないと言う事も
大きく改善されます。
またBIが支給されるので、非常に安心した生活が出来るし、労働の自由
への道も開けて来るでしょう。






第三の道

循環しない第二の貨幣によるBIと、社会信用論に基づく公共貨幣・正当価格とを
組み合わせる


循環しない分配(BI)専用貨幣= 新世界と、
 BI抜きの社会信用論   = 旧世界(賃労働社会)
とを組み合わせる
れば、インフレになるという批判をされる事なく、安心して社会信用論を
実行できます。
新世界では、労働と分配が完全に切り離されています。
新世界の導入を、様々な形でする事が出来ます。
たとえば、精神文化活動や法政治活動などの
領域に限って導入するという方法です。
精神文化活動や法政治活動に限らず、経済活動のある領域だけ実行する事も
出来るでしょう。
けれどもその場合には、すべての人への支給ではないので、BIとは言えない
でしょう。
また、全領域、ダグラスの社会信用論に新世界(完全なるBI)を導入する事も
出来ます。
いずれにしても、この場合、商品に2つの価格が付きます。
旧世界は、賃労働社会が社会信用論によって改善されます。
正当価格の決定法など全て同じですが、BIの方式だけが違います。
ただし右辺は賃金だけになります。

新しい商品価格(古い商品価格×補償比率)=賃金

BIで購入された場合はすべての労働は中間労働も含め
全工程すべて無償労働される。したがってこの式には入れない=新世界
それ以外で売れた分だけ支払えばいい。輸出入は輸出入機関が
経済全体で相殺し、赤字分は、国家が政府紙幣で補償する=旧世界)

新世界は、
BI
貨幣は1回しか使えない循環しない万能の商品券の様なものです。
BI
専用の循環しない万能商品券あるいはマネーカードを使います。
それは他の貨幣と交換出来ません。
ですから景気によって変動しません。
インフレにもなりません。
ダグラスの案だけでも、インフレにならない)
BI
社会と、賃労働社会を完全に分けた方が、BI社会の特徴がはっきりすると思った。
これなら、インフレになるという誤解や批判を、完全に回避出来る。
BI
支給額との関連で、適正
価格を制度設計して決定する。商店はBI担当をおく義務があります。
BI
担当は、BI法の適正価格決定基準に従って適正BI価格を決定します。

ようするに、BIとは労働と分配の分離なのであり、労働の脱貨幣化(全人格化)、
分配の全人格化(分かち合い)なのである。


本来、労働とは、労働そのものの目的の為にのみ、労働するのであって、
労働に貨幣はいらないのである。
賃労働はあくまで補助的であるべきものなのである。
本来、分かち合いの分配をする社会が先にあり、そこに生まれてきた
個人は、社会にお返しを自らすすんでする、それが自由で健全な
本来の社会のあり方である。
将来、新世界(BI)を拡大させ、旧世界(賃労働)は縮小して行きます。
どちらでどれだけ何時間働こうが、完全に自由な世界です。



【 私 の 結 論 】

★★★
一体どの道を選択すればいいのか?


私の答えは、いきなりダグラスの案ぬきで、新世界を全面導入する事である。
賃労働の全廃(完全なるベーシックインカム)である。
散々迷ったあげく、ようやく私は言い放とうと思う。
その方がはるかに単純でわかりやすく、また自然で自由で美しい。
果たして、あなたの答えは?

私の根拠

どうしてゆっくり暫時的に改善して行く必要があるだろうか?
そうしたところで、一体何の益があるだろう。
無駄な苦しみを長引かせるだけではないのか?

貨幣獲得動機なしでは、やる気にならない労働をどうしてやる必要が
あるだろうか?そんな仕事はなくなってもいいのである。
なくなって困る事があれば、人々はなんとかしなくちゃと本気になるだろう。
しかし、もう貨幣獲得というごほうびはもらえない。
もうすでにもらっているから困る事はない。
困る事があるとすれば、だれもその為に働かなかったからだ。
だからなんとかしようと思う。
それでいいのである。
一体そのどこに問題があるのだろう。
どこにもない。

働く気がなくなって混乱する?
働く気がなくなるのは強制されるからである。
全く自由だと、強制しないと働かない?
ごほうびをもらわないと、働かない?
だからアメでつらなければならない?
それはどれも他人を強制し支配しようとする発想である。

いや怠け者とまじめな者、優秀な者とそうでない者といる?
怠け者が得をする社会だから駄目?
真面目な奴がやる気をなくす?
働けば働くほどそれなりに見返りが増えなきゃ真面目な奴が可哀想?
でもそれってねたみじゃないの?
そう思うなら、人より多くもらおうとせずに、自分も怠ければいい。
怠けようが働こうが、全く自由な社会なんだから。
どうしてそれを制度にして、人に強制する?

有能なその仕事を遂行する能力がある人間に、その仕事をしてもらう事は
人類にとって必要あるいは有益な事だろう。
しかし、どんな人間にも自分のしたい事に自分の人生を捧げる権利がある。
たとえ、球拾いをする能力しかなくても、声援を送る事以外何も出来なく
ても、その場に居たがるものを、どうして門前払いして排除しようとする
必要があるだろうか?
自分が役に立たない又は不向きだと思った人は、自らの判断で去るだろう。
来る者はこばまず、去る者は追わず、だ。
それが個人の自由意志を尊重する共同体のありかただ。
どうしても出来ない物理的な限界があるなどの正当な理由がない限り。
そういう訳には行かないのは、今の社会が貨幣損得勘定を考えざるを得ない、
経費のかかる社会であるからに他ならない。

いや、社会には社会の要請があり、労働者にはそれを選択する自由など
ない?そんな事したら社会がうまく回らなくなって大混乱する?
決定権は雇用する側にあるのが当然?
自分の所には、優秀で気の合う人が来て欲しいと誰もが思って労働者を
奪い合う。けれど、優秀でない人間も、気にそぐわない人間も、元犯罪者も、
身体に障害がある人も、他の団体も、年寄りも、女性も、皆働く権利がある。
本来、先着順で受け入れるべきではないのか?優秀な人が来なかったら、
今回は運が悪かっただけである。
そして自分の能力の出来る範囲の事をやってもらったらいい。
それが出来ないのは、経費がかかるから、損得勘定で生存競争している
からに他ならない。

協同して労働する共同体の中で、誰にどんな役割がふさわしいかは、
皆で相談して役割分担すればいい。
けれども参加する前から、その人が望んでいるのに、どうして参加する権利まで
拒絶したり選択したりする権利がある?

もし、どうしても人が足りなくなって、困ったり、緊急に優秀な人材を要する時、
経費のかからない、生存競争しているのではない社会では、他の所にいつでも
応援を要請出来るのだ。そして、より自分を必要としている所に自由に移動
出来るのだ。

優秀な者にはそれなりの特別報酬を与えるべき?
そう思う人は、優秀な者に感謝の贈り物をすればいい。
でもそれは個人それぞれの判断にまかせられている。
それを制度化して、人に強制する必要などどこにもない。
私には何の問題もない様に思う。

いやほとんどの仕事が強制されなければ、報酬という誘惑をもらわ
なければ、やろうとする者がなくて、退屈な仕事が大崩壊して大変
な事になる?

でもそんなアメやムチで、誘惑や強制で他人を支配をしなければなら
ない様な仕事は無理してやる必要が、あるいは他人にやらせる権利が、
一体どこにあるというのだろう?

すべての人には労働の義務がある?
でもそれって強制じゃないの?
あなたが言う労働って、一体何なの?
私達には、人生の営みの内容を自由に選択する権利はないの?
権利はあるけど有能でなくちゃ駄目?それって本当に自由?
雇用の確保が大事?
でもこんなに物質や商品が溢れ返っているのに、まだ新手の商売を
始めるの?
まだ狂った様に忙しく、新製品を次々出す必要が本当にあるの?
生存競争に負けるから?どうして生存競争しているの?
本当に雇用の確保が必要なの?
本当に労働の義務があるの?
どうして、働けど、働けど、何時までたっても労働時間が減らずに、
ますます忙しくなって行くの?
労働って一体何なの?お金にならない事は、労働じゃないの?
本当は、見返りを求めない方が、採算がマイナスであればあるほど、
賞賛されたんじゃなかったの?

そう出来ないのは、
欠乏から人生をスタートさせられ、奪い合わなければ生きられない
社会だからじゃないの?
他人の幸せなど考えている余裕がないからじゃないの?

確かに宣伝どおり、私達は、ある面たしかに社会貢献しているけど、
一体何の為の社会貢献なの?
生存競争に勝つ為の社会貢献なの?

どうして貧乏人は、損得勘定を度外視したら、たちまち生きていけ
なくなるの?
どうしてお金がなければ、自由に社会貢献出来ないの?
どうしてお金がなければ、何も出来ないの?
これって本当の自由?それともにせの自由?
これって本当の社会貢献?それとも偽善?

たしかに怠惰は悪で、労働の汗は尊い。
けれどそれを制度にして他人に強要する自由など、誰にもない。
法的強制、社会道徳より、個人の道徳の方が優先されるべきだ。
確かに集団生活には、皆の合意による取り決め、規則が必要かも知れ
ない。けれど可能な限り、個人の自由意志は尊重されるべきだ。
個人の自主的道徳心からするのでなければ、それは単に支配と
従属になり、あまり意味がないからだ。

土地は一体誰のものなの?
海は?山は?建物は?機械は?道具は?生産物は?住宅は?
誰のものでもない。
でも私達は、わざわざ私有権を廃止したり、奪い返したりしようとしない。
相続権を廃止したり、奪ったり、税金をかけたりしようとはしない。
金持ちの足を引っ張って、ひきずりおろしたり、ごちそうを取り上げたり
する必要もない。
所有権や相続権の分け前を要求したりはしない。
これまでどうりでいい。

ただ、すべての人の労働の自由と、労働財の無料使用と、分かち合いの分配
を実現する。
ただ、労働とお金(分配)を分離する。

けれども誰も奪われない。
けれども誰も困らない。
ただ奪う事はもう出来ない。
人より贅沢している人も大地主も大富豪も許される。
贅沢したい人は、贅沢の続行を許される。
そこに生産やサービスが提供されている限り。
私有権は、誰一人、それをよこせと言われる事はない。
相続権もそのままでいい。
もし、その人がそう望むなら、そうされる。
でもその人がそう望むなら、私有権が息子や娘に相続されるかどうかは、将来
わからない。
けれども、そうしなくても、自分の子供が困る事はないので、そうしない人も
出て来るかもしれない。
そんな社会を実現する事によって、所有権はもはや無意味になり、使用権
へと平和裏に移行させる。それまで忍耐強く待つ。
人が自らすすんでそうしようとするまで。
ただ、生産の為、公益の為、必要だから使わせて欲しいと皆でお願いする。
ただその人の良心に訴える。
ただ、使わせてくれとお願いする。
そうした所で誰も困らなくなる。そうしなければその物が存在している
意味がない事に気付くだろう。
そうした方が幸せと感じるようになる。
何よりも、全人格的な個人の自由意志が尊重される社会。
そんな社会を創造する事によって、それは実現する。

もし、金儲けのこれまでどうりの生き方がしたければ、この社会が性に合わ
なければ、海外へ出て行く事も自由だし、来るものも可能な限り、こばまない。
(しかし、無料で手に入れ、外国で売りさばき、ぼろもうけするのは問題あるかな?)
やがて、精神的、文化的財産は、無料で万民に、鑑賞を許される様になるだろう。
けれどもそれを強要される訳ではない。
誰も困る訳ではない。
これまでどうりの生活を保障されている。
誰も何も奪われない。


世界中の人が、高度経済成長したら、それから先、一体どうなるの?
豊かな国同士が生存競争するの?
戦争?資源の奪い合い?飢餓?環境破壊?高度管理社会?
いや大丈夫、皆幸せになれる、だって?
隣人と生存競争しているのに、一体どうやって皆幸せになれるというの?
心に平和が来なければ、世界平和など実現しない、はずじゃなかったの?

急激な変化は混乱するから駄目?
人間は自由を与えていいほど、まだ十分進歩していない?
急激な変化に対応出来なくて混乱する?

しかし労働の強制をこれ以上長引かせてゆっくり変化する必要が
一体どこにあるというのだろうか?
奴隷を解放してやるのに、どうしてゆっくりしなければならないの?
障害を取り除くのに、どうしてゆっくりする必要があるの?
生存競争をやめるのに、どうしてゆっくりする必要があるの?
そこに生存競争に負けて、飢え死にしている人がいるというのに。


家族間生存競争する貨幣循環による人間支配さえなくなれば、
人々はもっと自由に協力しあって、これまでどうり働く事も出来れば、
利益を得る必要もなくなるから、相談してもっと有益で自由な形で、
国際貢献や社会貢献が展開出来る。
良き分配にのみ配慮する完全なるベーシックインカムによって、
生活に困る人は一人もいなくなる。
それは、ベーシックインカムの設計次第だが、その設計は皆で相談して
決めればいい。上限も自由に決めればいい。

人々は、万民の自由な選択によって、自由に未来の社会を選択し、
未来を創造して行けばいい。
どうしてそれを規制する必要がある?

人より沢山貨幣をもらわなくたって、
仕事の為の土地や資本や原材料や中間生産物は、すべて支払い不要
で自由に注文生産されるから、無償無条件で国際貢献活動出来るし、
国内に困っている人居れば飛んで行っていつでも自由に支援活動が
出来る。贅沢したくなれば、いくらでも贅沢出来るし、質素で満足出来る
なら、そうも出来る。それは個人の選択の自由にまかされている。
それでいいではないか?

そんな事したら、皆が贅沢したがって大混乱?
そこに提供された生産とサービスがあるのだから、それでいいではないか?
欲しがる人が居れば惜しみなくごちそうを、最高のもてなしを
与えたらいいではないか?
どうして規制しようとする?
他人の贅沢度、生活程度をあれこれうんぬんし規制決定する権利など、
一体誰にある?
よっぽど目に余る場合には、お互い意見し注意しあえばそれでいい。
贅沢品の希少性があるから、奪い合いになる?
でも十分なBIがあるんだから、そうならないんじゃない?
それで、一気に世界中の魚が取り尽くされて全滅する?
それも個人の自由な選択に委ねられている。
強制労働社会だから、生存競争社会だから、そうなるのだ。
それに思いをはせる余裕が出来るのも自由があればこそではないか?

どうしてすぐそうして、規制したがるの?
どうしてこんなに沢山の規制を他人にしなければ、人類は生きていけないの?
最大の規制、強制を緩和しないで、賃労働を廃止しないで、一体何が規制
緩和なの?
強制社会の強化の為の規制を緩和するの?
強制は規制じゃないの?

たしかに科学技術と経済文明が発達したから、人類はたくさんの規制を必要
とする様にはなった。
けれども、歴史的、社会的には、強制社会だからこそ、
ますますたくさんの規制をつくりたがる。
そして他者を信じられない冷たい管理世界になって行ってるんじゃないだろうか?
本心はもっと自由で、人を信じてやって行けるそんな人間らしい社会がいいと
皆思っているんじゃないだろうか?
でもやっぱり信じられない?でもやっぱり信じたい?
その選択で人類の未来が決まる。

個人にとっては、活動が完全に自由になるのは早ければ早いほど
いいのではないか?
また個人にとっては、活動が自由に出来れば出来るほど生き生き
生きれるのではないか?
もちろん他の人の自由を阻害する様な身勝手な自由は無い。
また自然や世界が人間に求めて来る運命を超える自由は無い。
個人の活動が全く自由になったところで、まだ自分の能力の限界からは、
自分からは、自由になれないのだから、せめて他の人からのじゃまな
生存競争と労働を強いる法的強制をなくして、一体何が悪いの
だろうか?

労働を強制しなければ、一体誰が原子力発電所で働く?
労働を強制しなければ、ごほうびを用意しなければ、
誰がと殺場で働く?誰が死体焼き場で働く?誰が汚水槽
で働く?誰が刑務所で働く?
自分でする?オートメ化する?皆でやる?
労働を強制しなければ、あるいはごほうびを用意しなければ、
一体誰が殺人兵器や武器を作る?
これが一番悪魔的な疑問かも知れない。
もし、隣の国が攻めてきて、家族が、愛する家族が、皆殺しに
されそうになったら?その為にやっぱり必要だ、と悪魔は囁く。
万一事故になったら、大変だから、自分はいやだが、誰かに
やらせばいいじゃないか、と悪魔は囁く。
その答えはすべてあなたに委ねられている。
皆で相談して、決めるしかない。
だが誰も労働を強制されない。
兵役拒否権もある。
すべては個人の自由意志に委ねられている。
何よりも個人の自由意志が尊重される。
法的な手段は、よほど目に余る場合の最後の手段である。
私の答えは、原子力発電所や最小限の自衛武器を越える武器が
なくても、人間は、生きていけるはずだ。

そんな事をする位なら、もっと前向きに世界平和の為に貢献
すべきだ。しかし、あなたが本当にどうしても必要だ、と思うなら
それを止めはしない。けれども無料でつくって、それを
海外に売りさばく事は、絶対に許されない。
それを永世中立国として自衛と治安の為に、
あるいは、複数の永世中立国の協同自衛と協同治安以外に
使う事だけは、絶対に許されない。
あなたの答えは?


競争しなきゃ進歩しない?
でもどうして生存競争する必要がある?
いや生存競争する必要などどこにもない。
協同社会の中で、いくらでも協同の為に競争出来る。
どうして生存競争の為に協同しようとする?


生存競争をやめて、すべての人が自由に協同労働する社会を実現
するのを、わざわざゆっくりする必要性など、一体どこにあるのだろうか?
私にはこの問いを否定するに足る根拠を見い出す事が出来ない。
だから私個人は、この方法がベストではないかと思っています。
私は間違っているだろうか?
一体何を恐れる必要があるだろうか?
私達皆の協同労働と、分かち合いの分配さえあれば、何も恐れる必要などない。


本来全人格的な自由な判断でなされるべき、すべての人間の営為が損得勘定(採算)
に支配される様になった。
それ故に、国家は、経済の奴隷になった。
それ故に、政府は、お粗末な損得勘定(採算)に支配される経済と、本来の全人格的な人間の
営為がもたらすべき結果との間に生じたひどくなるばかりのギャップを埋める為に、この賃労働
制度の維持と尻拭いの為に、ゲームの家と化している。
その賃労働制度こそが、すべての問題の原因であるというのにだ。
まったく馬鹿げている。
財政赤字になるのは、この様な損得勘定(採算)社会の当然の帰結である。
求められている事はただひとつ、人間の労働を全人格的なものに戻す事、
損得勘定(採算)などの奴隷でいる必要はない事に気付く事、
労働と貨幣の間には何の関係もないのだと言う事に気付く事、
すべての労働を脱貨幣化する事、それだけである。
そうすれば隣人と生存競争しなければならないと思い込んでいる呪縛から目を覚まし、
真の現実、自由な全人格的判断の正気にすべての人が立ち返る事が出来るのである。
地方が疲弊しきっているのは、何故か?絶えず景気、不景気に翻弄され、まるで経済の
奴隷の様に人間が労働と生存競争を強いられ、その陰で必然的に、多くの人が排除
される事になり苦しんで居るのは何故か?
人間の労働が損得勘定(採算)に呪縛されなければならない、と思い込んでいるからに
他ならない。
人間の営為が、採算の奴隷でいなければならないと考えるから、本当にそうなってしまった
だけなのだ。だから、私達が現実と思い込んでいるものは、真の現実とは似ても似つかない
幻想と化したのである。
労働を脱貨幣化する事、そして分配を分かち合う事、それ以外の正解などどこにもない。
この明白な答えを見て見ぬふりをする事は、重大な人類に対する犯罪である。


私達日本は、この様な生存競争の勝者としての先進国として、世界の将来に重大な責務を
突きつけられている。この後に及んでまだ、嘘を付き通し続けるつもりなのか、それとも、一挙に舵
を切って、本気で、自由で全人格的な労働と、分かち合いの分配に基づく新しい世界のあり方
の道を切り開く英断をするつもりがあるのか、二つにひとつである。
世界中の虐げられた人々の無数の魂は祈る様な気持ちで見守っているに違いない。
日本がやれなくて一体だれがやれるだろうか?
日本の技術が優れているなどと時代遅れの自慢を繰り返している場合ではない。
今の時代は、いかにして巨大な技術を使いこなし人類の共存と幸福を実現し得るか、
魂のあり方、人類の労働のあり方そのものが問われているのだ。それでいいのかと。
全地球的生存競争の未来か、それとも全地球的共存の未来か、その人類にとって決定的に
重大な最後の大転換のチャンスの残された時がカウントダウンされているのである。
そのカウントダウンの音が聞こえない様な人物に、日本や世界の将来を絶対に任せる事は
出来ない。果たして、今の日本の政治家達に、経済界のトップ達に、その様な自覚と英断が
本当にあるのだろうか?
今の日本人がどう思っていようとも、それは日本人に課せられた重大な責務なのだ。
たとえ貧しくとも、世界の福音となり得る明るい希望を切り開く、そんな真に誇り高く世界に
尊敬され感謝されうる生き方をすべての人が出来る様な日本であって欲しい、
私はそう願ってやまない。
もし、この様な事が現実的な事だと思えないならば、それは私達が、夢想的な偽りの現実に
うつつをぬかし、心を奪われているからに他ならない。
国民生活の中核をなす賃労働制度そのものが根本的に間違っているという現実を直視せずに、
現実を語ろうとする人々の声が、今日も私の心を悲しくさせる。
これこそが問題の核心である。このがん細胞を切除しようとしないで、何が日本の再生だと
いうのだろう。


経済物資以外の、すべての法政治サービス、すべての精神文化サービスは、
無料で提供される。労働は、人々に貢献する為の無料奉仕となる。
法政治活動や、精神文化サービスは、もはや人々を支配するものではなくなる。
本当に人々の営為の中に尊厳ある魂が輝き、労働の尊厳が実現する。
経済物資も、やがて、人々は、値段を付けるのに頭を悩ますのが馬鹿馬鹿しくなるだろう。
すべての人に、隣人と生存競争しない権利を!
すべての人に、生存競争を強いる労働をしない権利を!
すべての人に、耕す権利を!
すべての人に、労働以前の生存権を!
すべての人に、労働の自由を!
そして、すべての人の人生に尊厳の輝きを!

全人格的な自由な人々の判断で、すべての人々が労働出来る社会、
全人格的な自由な人々の判断で、すべての人々が社会の成果を分かち合う社会、
すべての人々が、全人格的な自由な判断で、自分で自分の人生のすべてを
決定する事が出来る社会。
そんな社会を今すぐにでも、実現しようではありませんか?
そして、すべての人が、自分のあらゆる能力と、創造性と、人生を、もっと自由に
生き生きと花咲かせる事の出来る素晴らしい世界を、世界中に広めて行こうでは
ありませんか。
そして、経済における友愛と、
精神文化における自由と、
法政治の下における平等を、
世界中に実現しようではありませんか。



参考リンク

社会信用論入門講演
生きる為の経済

ダグラスのAB理論とシュタイナー



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