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賃労働について考える

2007/10/24

★賃労働について考える


●私は、以前から賃労働制度に批判的であった訳ではありません。

ではなぜ、私が賃労働制度について、シュタイナーと同じく、批判的な見解に至ったか?

その理由について、おさらいして、自己点検、再点検してみようと思います。

まずは、その理由をひとつひとつ列挙したいと思います。


●動機の二重性


○賃労働制度とはそもそも一体何か?と考えますと、労働の見返り、労働と引き換えに、貨幣を受け取ると

言う事です。貨幣に100%生活を依存している場合、それは、労働と引き換えに、生存を許される制度

と言えます。もしそれとは別に、最低限の生活を保障する制度があれば、結果だけは救済されるでしょう。

ですがそういう事後的救済処置の有無は別にして、単独に賃労働制度を評価しましょう。

さて、人間は一体何の為に労働するのでしょうか?労働とは一体何でしょうか?

労働(行為)の動機は、労働(行為)そのものの中に存在するはずです。

教師は、生徒に教える為に教え、

漁師は、皆が食べる魚をとって、皆が生きていける為に魚を取り、

椅子職人は、皆が座る為に、椅子を作ります。

そこ(動機)に、貨幣と言うものが入ってくる必要性(必然性)は全然ありません。

○賃労働制度の場合は、そこに貨幣獲得という動機がプラスされます。

貨幣と引き換えにその見返りとして貨幣を受け取っても、いや私は、労働そのものの為にのみ

労働しているのだと主張する事は出来るでしょう。

ならば、貨幣を受け取らずに労働出来るはずです。

むしろ、そう考えたがるという事実そのものが、人間とは本来どんな存在だったかを指し示している

様に思います。

貨幣を受け取っているという事実がある限り、貨幣獲得が動機の中に混入せざるを得ません。

貨幣獲得という動機と、労働そのものの本来持つべき動機との、動機の二重性、矛盾という問題が、

賃労働制度には必ず付随します。

○エーリッヒ・フロムにならって、聖書を引用するならば、人間は二人の主人に同時に仕える事は出来ない

のではなかったのか?なのに、二人の主人の相矛盾する要求の狭間で苦しむ事になります。

一方は、全人格的な道徳価値であるに対し、一方は単なる数値価値=道徳の省略、数値への還元です

から、矛盾は必ず生じます。しかし道徳を省略したからと言って、道徳問題がなくなる訳ではありません。

それは、どこかで解決する事を私達に求めてきます。

だからこそ、賃労働制度という制度は単独ではよう存在出来ず、社会保障(生活保証)と言う制度や、

ボランティアというものが、求められる様になってきたのです。しかし、エーリッヒ・フロムの言う様に、

今日の施し的事後処理的ボランティアは、資本主義の延命のお手伝いをすると言う皮肉な結果に

なっていると言えなくもないのです。まるで、右手で殴っておいて、左手で助ける様な事になってしまっ

ています。


●社会(皆)と個人の関係において、社会から受け取る果実の量と、

個人が社会全体(皆)の為に一体どれほどの果実を得たかとは、比例関係にはない。


○もし、自給自足しているならば、労働の見返りに個人が得る果実量は、人間と自然との関係において、

確かにある種の比例関係がある。

では、個人の労働量と、社会の果実の分配(個人の分け前)は比例関係にある

べきだいう考えは正しいのだろうか?いいえ正しくありません。

社会全体の収穫総量(自然)と、社会全体の労働総量(人間)がある種の比例関係にあると

言えるだけです。

その社会全体の収穫総量を、一体どの様に分配するかは、また別の問題(人間と人間の関係の問題)で、

決して個人の労働量と、その個人が受け取るべき社会の果実が比例関係にある訳ではありません。

ただ、個人の道徳の問題として、社会(他の人皆)から沢山受け取って、自分からそれ相応のお返し

をしないで怠けるのは、不正であると言う事が言えるだけです。人々は、そこに比例関係を見ている

にすぎないのです。ですがそれは個人の道徳性の問題です。

○では、賃労働制度=労働に見合った報酬という考え方の本質は何なんでしょうか?

それは、怠け者にはそれ相応の罰を与えると言う事です。

また、人より頑張った人は、人より沢山もらう権利があるという考えです。

罰を与えなければ、またほうびをもらわなければ、人はすすんで働こうとしないだろうという考えも

含まれているかも知れません。

そこには、人をあめとむちで働かせるという支配の意図が感じられます。

○では、労働と分配を切り離すべきという考えかたの本質は一体何なんでしょう。

それは、無条件に分かち合うと言う事です。労働量故にではなく、人間であり社会の一員である

が故に分かちあうのです。

そこには、怠け者を許す寛容の精神が含まれています。

怠け者に圧力をかけ、むちを打ち、人を無理やり働かせようとはしません。

自由意志を尊重するのです。

むしろ、怠け者によって、収穫総量が減る事によって、皆がその損を分かち合います。

その事によって、怠け者の良心に訴えかけます。

もちろん、どんな社会であれ、その様なやりかたがすべてうまく行くとは限りません。

当然、けんかやいざこざが起こります。

例外や社会問題はどんな社会でもまた新たに発生します。

ですから、怠け者問題が発生するかも知れません。

そうした場合、人間はどうすべきなのでしょうか?

なるほど怠け者は働くべきでしょう。

しかし怠け者を罰するのは、最後の手段にすべきと考えます。

私は、人間が怠け者に対してする事が出来るのは、自ら見本を示して、

良心に訴えるか、説得する事であると思います。

自然あるいは神に成り代わって、人を罰するのはそれが大きな弊害を生む時

だけにすべきと思います。

こう言う事で、二つの考え方の性質の相異、本質が分かって来ます。

○労働量と、分配(分け前)との比例関係をより主張すればするほど、

より損得感情に近づく。

労働量と、分配(分け前)との比例関係を主張する事が少なくなれば少ないほど、

より愛情に近づく。

そう言いたく思います。


●社会(全体)と個人の関係=権利が先か、義務が先か?

権利は権利。義務は義務である。


○一方に、社会(他の人)の果実を利用する権利があります。

もう一方に、社会(他の人)に対して貢献する義務があります。

賃労働制度=労働と報酬という考えの根底には、個人が義務を果たした見返りに個人の権利が与えられる、

という考えが潜んでいます。義務が先なのです。義務を果たさないで権利を主張するのは、はずかしい

あるまじき事という訳です。これが今日の一般の社会意識です。

義務と権利が直接的に結び付けられ、ワンセットになっています。そして、個人が義務を果たした見返りに、

社会から個人の権利が与えられます。沢山権利が欲しければ、もっと義務を果たせ。と社会(他の人)から

言われています。この様にして私達は支配されています。しかしそれは、エーリッヒ・フロムに言わせれば、

心理的には、脅迫です。義務を果たさなければ、権利を喪失するという恐怖で、人は義務を果たします。

○もし、社会保障制度によって、最低限の生活が保障されていたら、結果だけを何とかすれば、

それは、帳消しになるでしょうか?

いいえ。義務と権利が結び付けられてワンセットになっている事自体が問題なのです。

人間は義務を果たさなければならない。と言う事。それは正しい。

人間の権利は守られるべきである。と言う事。それは正しい。

それらはどちらも、無条件に単独で、尊重されるべきです。

双方を結び付け、どちらか一方を条件にして、たとえば、

あなたが義務を果たすなら、権利を差し上げましょう。もしくは

権利をくれるなら、義務を果たしましょう。というべきではありません。

もしそう言う事が、人間の行為の一般的ありかたとしてまかりとおるとしたら、人間の営為は、

単なる取引にすぎなくなってしまいます。

○人間は義務を果たすべきであるが故に、義務を果たそう、権利を尊重すべきであるが故に、権利を

尊重しようと言う時のみ、純粋な行為であり得ます。そうする事によってのみ、行為そのものの為に

行為する純粋性=真の自由を守る事が出来る、そう言いたく思います。

○個人の権利とは、全体の義務であり、全体の義務とは、個人の義務の集積です。

ですから、個人の義務のある所では、すでに個人の権利もなければなりません。

決して、義務が先にある訳ではないのです。

エーリッヒ・フロムはこの辺の所を、個人より社会の方が先に存在しているからだと表現しています。

社会は、個人が生まれて社会の一員になる前から存在し、そこに個人が生まれます。生まれて社会

の一員になる事によって、個人の権利は発生します。個人の義務は、個人が成人し、義務を果たす能力が

出来る事によって発生します。そう言いたく思います。

○シュタイナーに言わせれば、この辺の所を、人々の意識が未だに、古い自給自足的(対自然的)な

思考習慣から抜け切れていないと見ています。

共同社会に生きながら、未だに自給自足しているのだという訳です。

自給自足つまり、自分と自分の家族の為に働くのです。

しかし、生産の内容を見れば、すでに利他主義(分業)の時代に入っています。

私達は、実際、皆の為に生産し、働いています。

ですから、そのままの意識でもって、分配する時にも、「ただ皆の為=ただ分かち合うこと」だけを

考えればいいのに、分配の場に労働を持ち出し、自分と他人の労働量の比較をし、

古い「自分と自分の家族の為に」の意識で、家族間で対立し、損得勘定で奪い

合っています。

ですから、自分の労働量と、その見返りの分け前(収穫)の間には密接な関係があると

思っているのです。

○しかし、分配の場で、人間が見るべきものは、労働者の労働量などではなく、

生産物総量と、社会構成員全員のひとりひとりの必要なのです。

それさえ見ればいいのです。分配の時は、分配の事を考えるべきです。

労働者の労働の問題、怠け者問題は、労働の場で考えるべき問題なのです。

分配の場で、怠け者問題を持ち出して、罰しようとか、誰が得して誰が損するとか、

労働量の比較をするべきではなく、社会の一員であるが故に、分かち合うべきだ。

そう言いたく思います。


●労働の種類と賃労働の問題

労働の対価かそれとも分配か?


●一口に労働と言っても、労働には色々なものがあります。

今まで、それについてふれませんでした。

労働には、精神文化労働、法政治労働、経済労働の三種類があります。

賃労働は、そもそも商業(経済)に起源があります。

つまり、労働の商品化が、賃労働に他なりません。

人間のあらゆる労働が、賃労働になったのは、歴史的にはそう古くありません。

それまでは、贈与が大きな働きをしていました。

特に、精神文化労働や、法政治労働においては、経済労働者からの贈与が

大きな働きをしてきました。

今日でも贈与は、生き残って、社会の片隅、特に、最後の砦である核家族で生き残っています。

実際贈与がなければ、健全に社会を維持する事は出来ないでしょう。

なぜなら、贈与とは、貨幣と言う数値価値(損得感情)を超えた、道徳判断に基づく行為であるからです。

●今日、労働が商品化する事によって、同時に経済従事者が、非経済従事者に贈与しなくなる事によって、

すべての労働が、商業化してしまいました。賃労働制度=労働の商品化によって、精神文化労働も、

法政治労働も、経済に支配されるものになってしまいました。

●商品になっていいもの、貨幣価値(数値)判断が通用し、ふさわしいものは何か?という問いなおしは

大事な事だと思います。私は、自然から人間に流れ込む経済加工品(経済物資)だと思います。

貨幣と言う数値価値(損得勘定)がふさわしいと言い得る領域はここだけではないでしょうか?

一方、教育、芸術、学問、すべての人間労働などは、人間から発するものです。

ですから自由意志に基づく道徳的判断のみが唯一可能な判断、ふさわしい行為基準になりうると思います。

貨幣(損得勘定)の適用は間違い(ふさわしくない)と思います。

法政治は、人間と人間の権利関係です。

ですから、ここでも貨幣価値(損得勘定)はふさわしくありません。

自由意志に基づく道徳的判断のみが唯一可能な判断、ふさわしい行為基準になりうると思います。

●それでは、経済内部ではどうでしょうか?

経済すなわち、物質的肉体的領域にあっては、人間は利己主義です。

利己主義は肉体と共に始まっています。ですから損得勘定が、ある意味そこではふさわしいと言えます。

ですから、その利己主義をいかに無害なものにし、皆の利己主義を満足させるかと言う事が課題に

なります。もし、賃労働制度で、労働が商品になるなら、必然的に人間は経済の利害関係の渦に巻き込

まれてしまいます。経済内部でも、動機の二重性から来る矛盾の問題、労働の商品化によって経済に

人間が支配されてしまうという問題はあります。

それ故に、貨幣は、人間から発する人間労働には適用すべきではなく、賃労働(労働の対価)としてでなく、

流通、分配の場において、分配の手段として、自然から発し人間に流れ込む経済物資のみに適用

すべきだと、私は思います。

●ですから、人間に貨幣が支払われる行為の本質は、社会の果実を分配をし、

すべての人が不幸にならない様に配慮する為、人類の幸福に役立つ為であって、

その人がどの程度の労働をし、貢献したかを評価する為(労働の対価)ではありません。

もちろん、有能な人間により、人類の幸福に大きな貢献がなされる為の事業に

多額の貨幣が必要ならば、その有能な人間に、多額の貨幣の使用が託されるでしょう。

それはその人の過去の労働の評価に対してそうされる(労働の対価が支払われる)のではなく、

その人のこれからの労働に期待してそうされる(分配される)のです。

ですから、その貨幣の支払いの本質は、労働の対価ではなく、分配なのだ。

そう言いたく思います。



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