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ぼらブログ

金融政策はどうあるべきなんだろう?

投稿日時:2010/05/20(木) 16:30

金融はどうあるべきなんだろう?
全人格的な分かち合いの分配と、全人格的な自由な労働の実現の為に

●この社会の貨幣システムがいかに欺瞞的であるかは、ダグラスの指摘した否定出来ない
ただひとつの事実を認識するだけで十分である。
商品の価格は、資本金+賃金+原材料費などからなりたっている。
だから賃金の総計すなわち購買力は、常に決して作られた商品全体を買う事が出来ない
恒常的な購買力不足にある。
その為、このシステムでは常に、生産者は物が売れず苦しみ、消費者は物が買えずに
苦しむその様な人々を作り出しているという事実である。(A+B理論といわれている)

ダグラスは、このギャップをコスト以下の価格で販売する事が出来る様に価格補償する事
と、ベーシックインカム(社会配当)の2つを政府が実施する事によって常に一致させる事を
提案している。そして、借金による貨幣発行ではなく、公共的な通貨の発行による事業投資
を提案する。そして賃労働という分配法は将来縮小して行く。

●貨幣も法である。法は人間をしばり、人間の自由を奪う側面がある。
ひとつ使い方を誤ると。法は、無くても困らないなら無い方がいい。
しかし、人間が不完全であるが故に、必要悪としての法的強制力なしでは社会を維持
しにくい。
だが必要以上に、誤って法を行使すると、人間の全人格的な自由は奪われる。
原則自由で、目にあまる時だけ不正を取り締まる、というのが、法のあり方だろう。
それは貨幣も例外ではないはずだ。お金がなければ何も出来ない様な今日の社会は
すでに人間を貨幣という法の奴隷にしてしまっている。景気対策という操作の
下に、幾千万の人々の暮らしと運命がかかっていると言う事自体が、
すでに人間を貨幣の支配下においてしまっている。
貨幣は人間に貢献する場合のみ存在が許されるのであって、
人間が貨幣に困る事があるのはおかしいのだ。
もし貨幣という法が人間を苦しめる事があるならば、そんな貨幣の使い方は、やめな
ければならないはずだ。

●すべての人に、全人格的で自由な活動を無条件に許した上で、どうしても許せない
不正だけを法で規制すればいい。それが人間の労働のあり方として望ましい最大限
人間の自由なあり方と創造性を許す社会だろう。
ならば、その活動の為に必要なすべての経済物資の分配、すなわち金融融資あるいは
資本の分配のあり方には、次の2つしかありえない。

○貨幣を使うならば、その為に必要な貨幣がすべてあらかじめすべての人に分配されるので
なければ、貨幣のあるなしの問題=不公正の問題を根本的には解決出来ない。
今日の社会保障や経済政策は、根本的な問題を放置して、事後的な対症療法のごまかし
ばかりだから、また一見違うが同じ種類の問題が何度でも繰り返し起こる。
そのお金が欲しかったら働いて稼げという今日の常識は、一見もっともらしいが、よく考える
と虚偽に満ちている。そもそも、自由に働く為のお金を稼ぐ為に働けという訳だから。
努力もしないで文句を言うなと言う。なるほど必死で努力してその自由をかちとった
人間は賞賛される現代の英雄だ。そして皆もそれに続けと言う。けれどもその自由を
勝ち取れる人間は絶えず一部の人間にすぎない。

○もうひとつは無償分配あるいは無償利用である。
この2つのいずれかである時のみ、労働の真の自由の前提条件が満たされる。
そこに生きるべきは、全人格的な判断であって、貨幣勘定などではない。
必要なのは人々の合意のみであって、労働には本来貨幣勘定は無関係なのである。


●自由な活動の権利は、お金で買わなければならないものなのだろうか?
そこで必要なのは、人との合意だけであって、お金ではないのではないか?
そもそも経費がかかるというのは、それだけで立派な人間の支配ではないのか?
あらかじめ必要な貨幣が無条件に分配されていない限りは。
社会資本を使わなければ人間は自由な活動を出来ない。しかし、その社会資本を買う自由は
自由とは言えない。その為のお金がすべての人にあらかじめ与えられていなければ。
そこで生きるべきは、全人格的判断であって、金貸しの貨幣勘定などではない。
その事業が不正なものでなければ、誰にでもチャレンジするチャンスを与える、
個人の自由意志を最大限尊重する社会の方がいい。
それをさまたげ、負荷をかけ、借金という形で人々に事業資金の返済を要求し無駄な苦しみを
与える必要などない。
もともとその貨幣は、ただの紙切れで、権利の引換券(切符)にすぎないのだから。

●もうひとつの道、それは脱貨幣(無償)である。
仕事そのものの為にのみ仕事するだけの純粋労働である。そこに貨幣など関係ない。もともと
人間の労働とはそういうものだったのだろう。
その様な人間のあり方を、今の社会は不可能にしてしまっている。
ベーシックインカム=労働以前の収入は、その様な人間の労働のあり方を可能にするだろう。
とにもかくにも、人間は借金しなければ自由に活動出来ないというのでは、人間の労働そのもの
が貨幣に奴隷の様に仕える事になってしまう。
投資の形が借金である事は、金融のあり方の原理が、金貸しの原理である事は、もはや望ましく
ない事はすでに明白になっている。
金融と投資の原理を根本的に転換する事を、人類は、迫られている。
金貸しの原理の貨幣の下での人間の労働は、生存競争の奪い合いにしかならないからだ。

●政府紙幣による返済不要の事業投資に反対するものは、民間に対する国家介入の危険を
叫ぶ。要するにかっての独裁的な国家主義権力に対する闘争である。しかし、銀行は民間では
あるが、もはや国民の代理人ではない。いやはじめから国民の代理人などではなかったのだ。
もし、銀行がいままでのあり方を変えて、自ら真の国民の僕となるというなら、金貸しであると
言う事をやめるというなら、政府紙幣でなくていい。今の政府とて国民の僕であるとは言い難い。
しかし、日本銀行券は、今では人間を支配する絶対者になってしまった。
だから、民間だからよりいいとは言えない。
金融資本も生存競争社会の勝ち組の一企業にすぎないからだ。
もちろん、政府による政府紙幣の発行に危険がない訳ではない。今の政府が、国民の幸福に
十分に仕える存在にはなりえていないからである。しかし、少なくとも不完全きわまりないとは言え、
国民には選挙でNOという権利が与えられている。国家権力主義に走らない様に目を見張っておく
必要はあるが。

●国家は、銀行に、その貨幣の事業投資を借金としてではなく、原則自由で不正業務だけを不許可
にする返済不要の投資として、国民に分配する業務を委託する事が出来る。
日本のお役所仕事は、何かと規制が多く許可がなければ何も出来ないが、もっと原則自由で、
最低限の不正だけを規制すればいいのだ。いちいち報告書を書かなければならない様な書類
主義も問題である。とにもかくにも国民の労働を可能な限り自由に認めるという事が基本である。
その為の資本や生産財の流動と使用を無条件に最大限に自由に出来る様に留意するのである。

●今日の銀行と金融の借金、金貸しによる貨幣発行は、私的でありすぎ、もはや国民の利益に
全く反しているからだ。戦後の焼け野原からの、飢えからの脱出のみがすべてである時には、その
やり方も通用し得たかもしれないが、もはや弊害の方が多くなっている。
貨幣は法であるからきわめて公益的な運営を求められている事に人類は気付き始めている。
もはや金融資本主義では、ますます激しい世界生存競争の醜い悲惨を引き起こす未来しか
待っていない事は明白である。ほとんどの人々はその事を無意識的には予感しているのだが、
願わくば見て見ぬふりをしたいと思っている。
だが、本当は、見る目をもっている賢人は、何世紀も前から、その事がわかっていた。
ただ権力者がことごとくその真理を踏み潰しごまかし続けてきたのが歴史の物語っている所
である。

個人の労働の自由と、それを側面から支援する形での法的な貨幣システムの再構築
が人類の未来を決定するだろう。
それを実現する様な貨幣システムを今の政府が本当に再構築出来る能力があるかどうか
はわからない。しかし少なくとも不完全だが国民は選挙でNOという事は出来る。
そしてその為の未来のシナリオは、すでに存在する。
あとは国民の意思表示だけだ。
二の足を踏んでいても何も解決しないで、同じ所で事態をますます悪化させるだけだ。
私はその方向にしか明るい人類の未来は見出せないのだが、皆さんはどうだろうか?

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